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東京地方裁判所 平成3年(ワ)2400号 判決 1993年3月30日

主文

一  被告は、原告川松裕子に対し、金二二〇万円及びこれに対する平成二年七月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告川松裕子のその余の請求及び原告川松尚文の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

理由

第一  請求の趣旨

被告は、原告川松裕子に対し金三二五〇万円、原告川松尚文に対し金一一五〇万円、及びこれらに対する平成二年七月三〇日(不法行為の日)から各支払済みまで年五分(民法所定)の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、産婦人科医院を経営する被告に対し、妊娠により被告の診察を受けていた原告川松裕子(以下「原告裕子」という。)及びその夫の川松尚文(以下「原告尚文」という。)が、診察上の過失を主張して、民法四一五条又は七〇九条による損害賠償を請求するものである。

二  当事者間に争いがない事実

1  当事者

原告裕子は、原告尚文との間の第一子を出産するため、被告の経営する関根産婦人科医院(以下「被告医院」という。)に通院及び入院していた。

被告は、被告医院を開設し、経営している。

2  本件診療の経緯

(一) 原告裕子は、平成二年一月三一日、被告医院で初めて被告の診察を受け、妊娠しており同年八月二七日出産予定であるとの診断を受け、以後同年二月二二日から同年七月二三日まで約八回にわたり通院して被告の診察を受けた。

(二) 原告裕子は、同年七月二九日午後三時ころ、下腹部が張つたため、午後五時三〇分ころ被告医院に電話連絡し、午後六時五〇分ころ、被告医院に行つた。

被告医院では、被告の診察を受け、超音波による検査の結果、胎盤早期剥離のおそれはなかつたが、むくみがひどく妊娠中毒症になつていたため、被告の指示により入院した。

同日午後七時すぎ及び翌三〇日午前〇時三〇分ころ、池田佳奈看護婦(以下「池田看護婦」という。)により、分娩監視装置を装着された。

午前四時ころ、出血があつた。

午前七時三〇分ころ、激しい出血があり、午前七時五〇分ころ、被告が診察した結果、常位胎盤早期剥離を発症していたため、午前八時三〇分ころ、救急車で日大病院に転送され、同日午前一〇時ころ、帝王切開手術が行われたが、胎児は死亡していた(以下「本件事故」という。)。

(三) 原告裕子の入院後,右常位胎盤早期剥離を発見するまで、被告自身が原告裕子を診察することはなかつた。

(四) 原告裕子は、その後日大病院に同年八月一七日まで入院し、退院した。

3  診療契約の締結

原告裕子は、妊娠後一貫して被告医院で診察を受けており、被告との間で適切な診療をなすことを内容とする診療契約が締結されていた。

三  争点

1  被告の診療上の過失

2  原告らの損害

四  当事者の主張

1  原告らの主張

(一) 被告の過失

(1) 被告は、原告裕子の通院時の平成二年七月七日の診察において、既に妊娠中毒症による入院加療の必要性が明白であつたのに入院指示も治療も行わなかつた過失がある。

(2) 被告は、同年七月二九日午後六時五〇分ころの診察で原告裕子に妊娠中毒症が発症していることを認めており、その後の分娩監視装置の記録上遅発一過性徐脈(LD)がみられ、振動音響刺激装置(VSA)の使用の都度胎児心拍数が低下しており、更に原告裕子が何度も腹痛を訴えていたことなどからすると、被告は、原告裕子の分娩監視を十分に行い、遅くとも七月三〇日午前一時ころには常位胎盤早期剥離を疑い,早期に被告本人が原告祐子を診察して常位胎盤早期剥離を早期に発見し、帝王切開により急速に胎児を娩出して母子の生命健康の安全を図るべき注意義務があつたにもかかわらず、右注意義務に違反して必要な分娩監視を怠つた過失により、原告裕子の常位胎盤早期剥離を早期発見できず、帝王切開の時期が後れたため胎児を死亡させるとともに、原告裕子の生命に対する危険な状態に陥らせたものである。

(3) よつて、被告には、民法四一五条又は七〇九条により、原告らの被つた損害を賠償する責任がある。

(二) 原告らの損害

(1) 原告裕子に対する慰謝料 金三〇〇〇万円

原告裕子は、本件事故により、娩出直前まで健康に成育していた胎児を失つた。原告ら夫婦にとつて第一子であり、胎児の出産を心待ちにしていたものであり、原告裕子の精神的苦痛は筆舌に尽くし難い。しかも、本件事故は前記のとおり被告の重大な過失により生じたものであり、原告裕子自身も生命の危機に瀕した。出生直後新生児が死亡した場合に認められる損害賠償額との均衡等を考慮すると、本件事故により原告裕子の被つた精神的苦痛を慰謝するためには金三〇〇〇万円が相当である。

(2) 原告尚文に対する慰謝料 金一〇〇〇万円

原告尚文は、本件事故により、出産を心待ちにしていた第一子を失つたものであり、その精神的苦痛は筆舌に尽くし難い。本件事故により原告尚文の被つた精神的苦痛を慰謝するためには金一〇〇〇万円が相当である。

(3) 弁護士費用 合計金四〇〇万円

原告らの請求にもかかわらず、被告は損害賠償に応じないので、原告らは本訴提起を原告ら訴訟代理人に委任し、弁護士費用(着手金及び報酬金)として原告裕子につき金二五〇万円、原告尚文につき一五〇万円を支払うことを約束した。これらは本件事故と相当因果関係にある損害である。

2  被告の反論

(一) 原告裕子の平成二年七月七日時点の妊娠中毒症は、軽症であつて外来治療で足り、入院指示を行う必要はなかつたから、被告には過失はない。

(二) 常位胎盤早期剥離は、その原因も明確でなく、しかも、突発的に発生することから、その予知や予防法も確立していない。常位胎盤早期剥離は、自覚症状としては、腹部の激痛があり、他覚症状としては、子宮体部の圧痛、子宮底の急激な上昇、腹壁の緊張、子宮出血などがあるが、本件では、原告裕子は、常位胎盤早期剥離に典型的な症状である激痛を最後まで訴えておらず、他覚症状としての子宮体部の圧痛や子宮底の急激な上昇もみられていない。

そうすると、被告において、常位胎盤早期剥離を予知、予防できなかつたことには何らの過失はない。

(三) しかも、常位胎盤早期剥離は、たとえ入院加療していても胎児死亡が突然起こり得るものであるから、本件は早期発見したものといえるし、高次医療施設である日大病院への母体緊急搬送の処置も、時期として相当であつた。

第三  争点に対する判断

一  本件診療の経緯

前記争いがない事実(第二の二)に加え、《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1  原告裕子は、平成二年一月三一日、被告医院で初めて被告の診察を受け、妊娠しており同年八月二七日出産予定であるとの診断を受け、以後同年二月二二日から同年七月二三日まで約八回にわたり通院して被告の診察を受けた。

2  原告裕子は、同年七月二九日午後三時ころ、下腹部の張りと痛みを覚えたので、午後五時三〇分ころ被告医院に電話連絡し、山田多美枝婦長(以下「山田婦長」という。)に腹痛、下腹部の張り、気分の悪さを訴えたところ、被告からすぐ来院するよう指示され、午後六時五〇分ころ、被告医院に行つた。当時、原告裕子は、妊娠三六週の高年初産婦(三三歳)であつた。

3  被告医院では、被告が診察し、血圧が一五〇/九八、下肢に浮腫がみられ、尿蛋白があつたため、被告は、妊娠中毒症と判断した。下腹部に緊張はあつたが、超音波断層装置による検査の結果、胎盤実質の肥厚・巨大化などの常位胎盤早期剥離特有の所見はなかつた。しかし、原告裕子の血圧が高く、浮腫もひどかつたことと、妊娠三六週であることを考慮して、妊娠中毒症の治療目的で入院させることとした。

4  原告裕子の入院後、被告自身は、午後九時すぎまで病院内で入院中の妊婦とティーパーティーを催しており、その後は、病院とつながつている自宅の院長室兼自室(当直室)にいた。

5  池田看護婦は、午後七時ころから約一時間四〇分にわたり分娩監視装置を装着して陣痛及び胎児の心拍数を記録に採るとともに午後七時一〇分から胎児への糖補給として点滴静注をして午後九時ころまで経過観察した。分娩監視記録によれば、胎児心拍数は一分間一二〇から一六〇bpmの正常範囲にあつた。

被告は、右ティーパーティー中に午後八時八分ころまでの分娩監視装置による監視記録を、その後の午後八時五〇分ころの監視記録はティーパーティーの後に、いずれも池田看護婦から渡されて確認し、異常がないものと判断して、原告裕子の妊娠中毒症を考慮して安静にすることを指示した。

6  午後一〇時三〇分ころ、当直の池田看護婦は、原告裕子に特に訴えがないことを確認して山田婦長に報告し、同婦長は原告裕子の病室を覗いて異常がないと判断した上で帰宅したが、このことは池田看護婦から被告に報告があつた。

7  翌七月三〇日午前〇時二〇分ころ、原告裕子が腹痛を訴えたので、池田看護婦は院長室兼自室にいた被告にインターホンでその旨報告し、被告の指示で二度目の分娩監視装置を装着して、午前〇時二〇分ころから午前一時一五分ころまでの間、陣痛及び胎児の心拍数を記録に採つた。その間、原告裕子と池田看護婦とは、お産の話や世間話をしていた。

被告は、右分娩監視装置による監視記録を、池田看護婦から渡されて確認し、異常がないものと判断して、原告裕子をベッド上に臥床して安静をするように指示した。

8  午前四時ころ、原告裕子がトイレに立つたところ、少量の茶褐色の出血があつたため、池田看護婦の指示に従い分娩室まで歩いて行き、分娩台で同看護婦の内診を受けたが、同看護婦は、子宮収縮がなかつたのでいわゆる産兆と考え、「出血はおしるしでお産が始まつている。」と言い、原告裕子を元気づける意味で牛乳を与えた。

被告は、池田看護婦からその報告を受け、妊娠三六週であるが分娩になるかもしれないから十分注意して様子をみるようにと、経過観察を指示した。

9  午前五時ころ、原告裕子からおなかが張るとの訴えがあつたため、池田看護婦が分娩室で内診を行つたところ、子宮口は一指開大、出血は少量であつた。この時点では、子宮収縮が不規則に見られ、胎児心拍数は超音波ドップラー装置で一分間一三八bpmで正常範囲にあつた。被告は、池田看護婦からその旨の報告を受けたが、子宮のとう痛や圧痛が見られなかつたので分娩が進行し始めたものと判断し、そのまま様子を見るよう指示した。

10  午前七時三〇分ころ、池田看護婦が、検温に際し、超音波ドップラー装置で胎児心音を聴取しようとしたところ、やや不明瞭であつたので、ドップラー用ゼリーを取りにナースステーションの隣の分娩室に戻つたところ、午前七時三五分ころ、原告裕子から「立ち上がつたら出血が多い。」と訴えがあつたため、同看護婦が原告裕子を分娩室で内診したところ、子宮口は一指開大であるが出血が多かつたので被告を呼んだ。被告は急いで分娩室に向かい、超音波断層装置で検査を行つたところ、七時五〇分ころ、胎盤の肥厚、巨大化と一部に出血を示す剥離徴候の所見が見られたので、この時点で初めて常位胎盤早期剥離と診断した。被告は、直ちに点滴と導尿を池田看護婦に指示するとともにショックや死に至るDIC(汎発静血管内血液凝固症候群)に進行する可能性を考慮して、午前八時三〇分ころ、原告裕子を救急車で高次医療施設である日大病院に緊急搬送した。

11  午前一〇時ころ、日大病院で帝王切開手術が行われたが、胎児は既に死亡していた。

12  右手術後三日間は原告裕子の生命が危ぶまれる状態が続いた。原告裕子は、同年八月一七日まで日大病院に入院し、同日退院した。

以上の事実が認められ(る。)《証拠判断略》

二  争点1に対する判断

1  妊娠中毒症の原告裕子を早期入院させなかつた過失について

前記認定事実及び《証拠略》によれば、原告裕子は、平成二年七月七日の健診の時点では、血圧が上昇し、尿蛋白陽性、下肢に浮腫が認められたため、妊娠中毒症と診断されたものであるが、七月二三日の健診の時点では、血圧がより上昇していたが、当日実施した血液化学検査では特に異常は認められていないこと、そのため、被告は、原告裕子を入院させず、外来治療として当帰芍薬散を投薬するとともに、日常生活上十分な安静をとることなどの生活指導と塩分制限などの食事指導をしたことが認められる。そして、《証拠略》によれば、日本産科婦人科学会の妊娠中毒症に関する軽症・重症判定基準では、入院の基準は重症の場合とされているのに対して、原告裕子の妊娠中毒症は軽症に属するものであつたことが認められる。そうすると、被告が、平成二年七月七日又は七月二三日の診察の時点において、原告裕子に入院指示や特別な治療を行わなかつたことに、過失があつたとはいえない。

2  常位胎盤早期剥離の早期発見等に関する過失について

(一) 常位胎盤早期剥離に関する所見について

《証拠略》によれば、<1>常位胎盤早期剥離とは、子宮内面の正常な位置に付着している胎盤が、妊娠中又は分娩中に、胎児の娩出に先立つて子宮壁から剥離することをいい、<2>胎盤早期剥離の場合には、子宮内出血と胎児環境の悪化を同時にもたらし、出血のため腹痛、子宮内圧の上昇、子宮壁の硬化、外出血が起こり、胎児は、低酸素症のため急速に胎児仮死に陥り、剥離の程度により胎児死亡に至る上、胎盤の剥離の進行とともに母体死亡を起こすことが多いこと、<3>常位胎盤早期剥離の直接の原因は明らかとなつていないが、妊娠中毒症がその有力な誘因の一つとされており、常位胎盤早期剥離の約五〇パーセントに妊娠中毒症が存在するとの見解や、三〇歳以上の高齢妊産婦では発症頻度が高いとの見解も示されていること、<4>常位胎盤早期剥離の場合、自覚症状としては、腹部の激痛があり、他覚症状としては、子宮体部の圧痛、子宮底の急激な上昇、腹壁の緊張、子宮出血などがあり、特に子宮体部の圧痛は特異的であること、<5>常位胎盤早期剥離は突発的に現れ、しかもその典型的症状が現れたときは胎児が既に死亡していることが極めて多く(胎児死亡率は九〇パーセントと非常に高いとの報告もある。)、前駆症状もないので、その予知は極めて困難であること、以上の事実が認められる。

(二) 原告裕子の常位胎盤早期剥離の発症の時期について

本件全証拠によるも、原告裕子につき、いつ常位胎盤早期剥離が発症したかは証拠上明らかではなく、七月三〇日午前四時の出血の時点で起きたのではないかとの疑いがあるが、前記認定事実並びに《証拠略》によれば、七月三〇日午前五時から午前七時三〇分の間に、原告裕子の妊娠中毒症が誘因となつて、非常に急激に常位胎盤早期剥離が起こり、右常位胎盤早期剥離により子宮内胎児死亡を起こしたものとも考えられる。

(三) 分娩監視義務の違反について

(1) 胎児仮死の判定基準について

《証拠略》によれば、妊娠中に、陣痛その他のストレス(負荷)のない状態で胎児心拍数をモニターしたとき(NST)の所見上、胎児仮死と判定される場合として、<1>高度徐脈の持続、<2>高度変動一過性徐脈、<3>基線細変動の消失、<4>遅発一過性徐脈(子宮収縮に遅れて胎児心拍数の低下が起こることをいい、胎児の予備能力が低下し、子宮胎盤での循環血流量が減少しているもの。子宮収縮に対応して反復発生するのが特徴である。<3>を伴うと重症である。)があることが認められる。

そして、《証拠略》によれば、原告裕子の場合、右<1>ないし<3>は認められなかつたことが認められる。

(2) 問題は、本件において、分娩監視装置の記録上、右<4>の遅発一過性徐脈が発生していたか、被告にこれを見過ごした過失があるかである。

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

ア 一般に、胎児心拍数は、一分間に一二〇ないし一六〇bpmが正常範囲であり、一六〇bpm以上を頻脈といい、一二〇bpm以下を徐脈ということ、

イ 池田看護婦は、七月二九日午後七時ころから午後八時四〇分ころまでの間、分娩監視装置を装着して陣痛及び胎児心拍数を記録に採つたが、そのうち、午後七時一五分ころから二五分ころまでは、基線は正常範囲に保たれていたこと、午後七時四二分ころに、胎児心拍数が急激に低下していること、午後七時五三分ころ、陣痛曲線の上昇のピークに約二〇秒遅れて胎児心拍数が下降し始めており、約四〇秒かけて一六〇bpmから一二〇bpmに落ちていること、また、午後八時一分ころには、同様に陣痛曲線の上昇のピークに約二〇秒後れて胎児心拍数が下降し始め、約四〇秒かけて一六五bpmから一三〇bpmに落ちていること、もつとも、胎児心拍数は正常範囲にあつたこと、

ウ 池田看護婦は、七月三〇日午前〇時二〇分ころから午前一時一五分ころまでの間、第二回目の分娩監視装置を装着して陣痛及び胎児の心拍数を記録に採つたが、午前〇時四七分ころから五一分ころまでは、基線は正常範囲内にあつたこと、午前一時ころから一時四分ころまでは、小さな下る波(dip)が見られたこと、

エ 池田看護婦は、第一回目の分娩監視装置の使用中に四回、第二回目の分娩監視装置の使用中に一回、振動音響刺激装置(VAS)によるテスト(陣痛とは別に外部から刺激を与え胎児心拍数の変化を見て胎児仮死の検査を行うもので、正常な胎児は刺激に対して心拍数の増加をもつて反応する)を行つたが、七月二九日午後七時二二分、七時四二分、七時五六分、八時二四分、七月三〇日午前〇時四七分の同テストの直後に心拍数は数十bpm下落していること、

オ 遅発一過性徐脈の場合の心拍数下降の程度による分類によれば、本件の胎児の心拍数の低下の程度は、中等度ともいえること、

右認定事実に、《証拠略》を総合すると、本件では、少なくとも七月二九日午後七時五三分ころ及び午後八時一分ころについては、健康な胎児の心拍とはいえない疑いのある症状が発生しており、遅発一過性徐脈が出現していた蓋然性が高いものと推認される。被告本人尋問の結果は、遅発一過性徐脈を否定するが、その根拠は明らかでなく採用しない。

そして、《証拠略》によれば、遅発一過性徐脈が出現した場合、子宮胎盤血流量を増加させることが必要になるところ、そのためには、<1>子宮収縮の抑制、<2>体位変換(側臥位)、<3>母体への酸素投与、<4>血漿量の増加、<5>帝王切開の用意等の処置が必要であるとの指摘があることが認められるが、被告本人尋問の結果によれば、被告は右のうち、<2>以外の処置を採つていないことが認められる。

そうすると、被告は、分娩監視装置による記録上、遅発一過性徐脈の出現を見落とし、それに対する適切な処置を怠つたものというべきである。

(3) (2)の分娩監視の時点での胎児仮死の有無

《証拠略》には、遅発一過性徐脈が一回でも出現すると胎児仮死と考えていい、胎児仮死の兆候である、との記載があるが、前記認定のその後の原告裕子の診療の経過、特に、その後胎児の心拍が回復しており、七月三〇日午前五時の時点まで正常範囲内にあること、更には、乙一〇号証を考慮すると、前記分娩監視装置による記録を採つていた各時点で胎児仮死があつたとみるには不十分である。

(四) 常位胎盤早期剥離の予見可能性、胎児死亡の回避可能性について

(1) 前記認定事実によれば、被告は、原告裕子のかかりつけの医師であつて、妊娠中毒証を理由に入院させていたものであり、しかも、原告裕子には、分娩監視装置による記録上、遅発性一過性徐脈が認められるような症状を呈していたものであるから、胎児仮死又は胎盤早期剥離の疑いを持ちつつ、より慎重に原告裕子の症状を注視すべき義務があつたことは否定できない。

(2) 本件において、被告は、原告裕子の入院後、一度も自ら診察していないものであるところ、《証拠略》によれば、池田看護婦は看護婦になつてまだ経験が浅く、かつ、常位胎盤早期剥離について実際には経験したことがないことが認められ、更に前記認定の診療経過から見ても、同看護婦が常位胎盤早期剥離について十分な問題意識をもつて経過観察に当たつていたと見るには疑問をはさむ余地が十分あることからすると、本件において、被告は、池田看護婦からの報告にのみ頼りきらずに、被告自ら原告裕子を診察する姿勢を取るべきであつたというべきである。

(3) しかしながら、そして、乙第一〇号証や前記認定事実(特に、常位胎盤早期剥離がいつ生じたか必ずしも明らかではないこと、入院時の診断では、常位胎盤早期剥離の所見が出ていないこと、その後の原告裕子の症状の経過でも、原告裕子は、常位胎盤早期剥離に典型的な症状である自覚的激痛を最後まで訴えておらず、他覚症状としての子宮体部の圧痛や子宮底の急激な上昇もみられていないこと、その後も胎児心音が聴取でき胎児心拍数の推移は正常範囲内であること、常位胎盤早期剥離の発症は突発的に現れることなど)からすると、前記被告の診療態度の種々の問題点を考慮しても、なお、被告において、七月三〇日午前七時三〇分の時点までに、常位胎盤早期剥離の発症に対する具体的疑いを持ち、常位胎盤早期剥離を予知し発見すること、及び胎児死亡を予知することは容易なことではないというべきである。

(4) 《証拠略》には、七月二九日午後七時一五分以降、遅発一過性徐脈が認められた時点で、被告自ら診察し、常位胎盤早期剥離を早期に発見すべきであつた、遅くとも七月三〇日午前一時に原告が腹痛を訴えた時には、被告自ら原告裕子を診察すべきであつた、そうするとより早期に常位胎盤早期剥離を発見し得た、との記載があり、その指摘には傾聴すべきものがあるが、前記のとおり常位胎盤早期剥離の出現時期が明らかでない以上、常位胎盤早期剥離を早期に発見し得たと判断することはできず、右各証拠は採用できない。

(5) また、乙第一〇号証には、七月三〇日午前五時の時点までに常位胎盤早期剥離の診断が下されていれば、帝王切開により胎児の救命ができたかもしれないとの記載があるが、前記のとおり、本件では、右時点において、常位胎盤早期剥離の診断が困難であつたものと認められるから、その時点で帝王切開を行う判断をすることも困難であつたというべきであり、しかも、仮に常位胎盤早期剥離の診断が可能であるとしても、前記認定のとおりその診断がついた時点では、胎児が既に子宮内で死亡していることが極めて多く胎児の死亡率は極めて高いことからすると、被告自ら又は他に転送して帝王切開を行つたとしても、結局のところ、胎児の救命は極めて困難であつたものと推認されるから、胎児死亡の結果の回避可能性を認めることは困難である。

(五) 以上によれば、被告に常位胎盤早期剥離の早期発見等に関する過失があつたと認めることはできない。

3  原告裕子の生命健康の安全を図らなかつた過失について

(一) 被告は、原告裕子との間で、前記のとおり適切な診療をなすことを内容とする診療契約を締結したものであるから、原告裕子の生命健康につき万全を尽くすべき診療契約上の注意義務があつたものというべきである。

(二) しかるに、前記二(四)(1)(2)のとおり、被告は、原告裕子を妊娠中毒症で入院させたにもかかわらず、その後は、池田看護婦に経過観察を任せきり、同看護婦の報告にのみ頼りきつただけで、一度も自ら診察していないものであるところ、前記認定の診療経過、池田看護婦の資質等を考慮すると、遅くとも七月三〇日午前四時又は五時には、医師である被告自身が診察することにより、患者を勇気づけ意思の疎通を図るなどの適切な措置を講ずることが可能であつたものであり、そうすることにより、たとえ常位胎盤早期剥離の発生や胎児死亡の結果が避けられなかつたとしても、原告裕子自身の診療に対する不安を和らげられるのみならず、場合により、原告裕子の日大病院での生命が危ぶまれる状態を回避することも可能であつたものといえるから、被告には、原告裕子の生命健康の安全を図らなかつた過失があるものというべきである。

(三) 原告尚文は、右診療契約の当事者ではないし、本件が同原告との関係で診療上の注意義務に違反したことを認めるに足りる証拠もない。

(四) よつて、被告には、民法四一五条又は七〇九条により、原告裕子の被つた損害(但し、胎児の死亡に関する部分の損害を除く。)を賠償する責任がある。

三  争点2に対する判断

1  原告裕子に対する慰謝料 金二〇〇万円

前記認定事実及び《証拠略》によれば、原告裕子は、本件事故により、生命の危機に瀕したのみではなく、医師に対する不信の感情を強く抱くに至つたことが認められるところ、本件事故により原告裕子の被つた精神的苦痛を慰謝するためには金二〇〇万円が相当である。

2  弁護士費用 金二〇万円

弁論の全趣旨によれば、原告裕子の請求にもかかわらず、被告は損害賠償に応じないので、原告らは本訴提起を原告ら訴訟代理人に委任し、弁護士費用(着手金及び報酬金)を支払うことを約束したことが認められるところ、本件事故と相当因果関係にある損害としては金二〇万円が相当である。

第四  結論

よつて、原告裕子の請求は合計金二二〇万円及びこれに対する不法行為の日であることが当裁判所に明らかである平成二年七月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、原告裕子のその余の請求及び原告尚文の請求は理由がないから棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 草野芳郎 裁判官 中本敏嗣 裁判官 左近司映子)

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